山登りはアンチエイジングに適当なトレーニングといいながら、やっぱり山が好きな自分が見つかります。定期的に登っているといつしか山が好きになっているものです。こうなるとトレーニングはどうでもよくなって来たりしますね。

何故と問うとき哲学が始まるもので、ギリシア時代から哲学は何故という問いかけで始まるものと決まっていました。何故に正しく唯一の答えを導けない、すべての哲学的命題はナンセンスだと喝破したのはウィトゲンシュタインでした。

絶対的な正解はないのだから、そこに山があるからという古典は置いて、自分で思弁しようという趣向です。つまり自分で山について、何故と問い、自分であれこれ答えを考えるのです。

例えば山が美しいから。山の美しさに魅入られた人は数多くいますので、この答えはさし当たり正しく見えます。しかし、多くの人が賛同するのが答えの条件でしょうか。決して違うでしょう。わずかの人が同意できなくても、正しい答えはあり得ます。

坂道を登る辛さを乗り越えるのが登山だから。辛さを乗り越えると強さが実るという実利的な答えをする人もいますよね。入り口はそのようなものでよいでしょう。分かりやすいですし、利益が明確です。しかし、強さが不要なら、登る必要がありませんし、強さに魅力を見ているのであって、対象が登山になっていません。

さまざまな危険をコントロールする必要があり、それらを乗り越えるところにスリルがあって、山の魅力になっている。そうですね。そうも思えます。でも危険なことはできるだけ避けるべきですし、一般の低山ではコントロールが必要な危険はそれほど多くありません。

空気が美味いというという答えも良く返されます。気功でもするのでしょうか。本来の気功は非常に複雑で、習得するのに何年も必要です。そんな気功を登山の道行きでできません。恐らく、激しさと熱を帯びる呼吸のことを意味しているのでしょう。でも山の中にはアレルゲンになる物質が多く潜んでいます。

私を山に誘った友人がいましたが、山で食べるインスタント食品が美味しいからと彼女は言いました。とても簡単で直情的、しかも魅力的な答えに思えました。でも私はカレーが好きではなかったのです。個人的レベルでの正解もあるのですね。

成功体験を得て、家に帰るのは仕事と人生の成功に通じると考える人は登山を人生のシミュレーションにしているのでしょう。その要素を見いだすことは可能でしょう。こう感じられるなら良いでしょうね。

問題を解決する方法はたくさんあります。現地にあります。この原理を今まで難度も繰り返し経験してきました。むしろ解決できなくなる道を特定する方がずっと難しい。でも山は迷い道が多くて、正解が少ないとなれば、論理が逆転してしまいます。

「案ずるより産むが易し」は信じるに価する台詞?登山口から登山道を見上げて、頸が痛くなった時もそのように考えようとしましたが、ダメでした。山頂まで、早く帰りたいと言いながら登り続けたのを忘れられません。

昔の友人を思い出しながら、一歩を進める山歩きが素敵です。昔の思い出の中からとびっきりの奴を引っ張り出して、その情景をイメージして、思い出の友人と対話をする妄想が気持ちよく、時間の経過を忘れるほどです。

変わらず山はそこにあるが、今日の山は違うように感じます。そんな経験を生駒山の登山道、暗がり峠を歩いている時にしました。小学生の時から何度も越えている峠なのに、その日だけはいままでと違う感じを受けたのです。

哲学書を持参するのも味があります。私たちは足跡を残して山を下ります。そしてまた明日から足跡を残して老いの坂を登り続けるのです。