近代以降の登山はスポーツの一環として発展してきました。それはその通りですが、ただ山を登って、頂から下ってくるだけでいいのだとすると、少し寂しい気もします。学校を卒業して山行きを強制されなくなると遠ざかってしまう人が多いのも、このためかも知れませんね。

武蔵御嶽山はお犬さま信仰の山として有名です。観光地として開発され尽くしたとは言えない要素が山の中のあちこちに見られます。ここは伝統と現代とが錯綜した空間を残している場所なのでしょう。

西洋科学が絶対的強度をもち始めた明治時代まで、オサキ信仰(狐憑き)群馬を中心にして関東一円に広がっていました。オサキが憑くと飛び跳ねたり、大食になってひたすら食べ続けたりしだしたそうです。

このような現象を生じた人を後の文化人類学者の調査研究では、精神的発作として、あるいは精神病の発症であると認識されていたと伝えています。昭和初期までにこれらの現象は迷信だと断じられるようになっていたのです。

しかし、日本全国にオサキなどの憑きもの信仰が存在していたのは紛れもない事実でしょう。さまざまな伝承と結びつきまた分かれて新たな伝承を作り出しながら、伝播していたのかもしれません。

オサキは九尾の狐のなれの果てとする伝承があります。中国伝来の妖怪が、平安末期に鳥羽上皇の寵姫だった玉藻の前に化けていたともされますが、退治された時に九つのしっぽが日本中に飛び散ってオサキになったと伝えられています。

農村のブームであったカイコ養殖と投機熱が貧富の差を生み、従来の社会構造を脅かした背景との関連が指摘されたりもします。確かに権威構造が変化すると社会的ストレスが生じる原因のひとつになるでしょう。

新興の村に異文化交流が起こした現象であったと考えることも可能です。家単位で入村した人たちが多い場所には比較的憑きもの伝承が多かったようにも見えるからです。新興の村にはさまざまな文化背景をもった人たちが集まっていたと考えられます。

そのような怪異があれば対策もしっかりとあるもので、オサキが付くと、オオカミのお札を頂いて追い払うというのがならいになっていたようです。村によってはそのためのお札の作成方法まで伝わっていたという報告もありました。

群馬などでは関東修験者が加持してお札を提供していたのが通例のようです。今の埼玉県の山にはそのような修験者が修行したとされる場所が複数箇所認められます。場所の数は需要の大きさを伝えています。

早くに日本ではオオカミが絶滅してしまいました。単なる迷信だというのであれば、絶滅は関係ないはずだと思うのですが、オオカミが絶滅した後、山犬や犬を神体として扱うようになりました。そこには文化的な論理整合性が必要なのでしょう。

今でも札の中心に犬の姿があしらわれている御嶽山の札を現地で見られます。宿坊には本格的な祭壇が設えられており、そこでお札を祭って加持するようです。犬と言われればそのように見える程度にデザイン化されていて、むしろお札としての雰囲気が大切にされているような気もします。

歴史・文化背景に目を配ると山と人との関わりが感じられます。歴史が変化すると文化にも変化が生じますが、その変化は単一ではない対応を示します。文化現象には人間の認識作用が大きく影響していて、学習済みの行動様式を変化させるのに時間が必要だからだともいいます。

ふと山の上で感じたのは、御岳講は江戸時代旅行の形式だったのかも知れない印象です。路地のように混み合った参道は狭く先の見通しが効きません。両脇に宿坊が通路に迫っているからです。このように宿坊は今も現役の御師の宿として営業しています。