必要は発明の母であるなら、必要がなければ発明は生まれないという結論になるでしょう。そんなことはないとも言えますが、私たちの日常生活を見回して、考えてみても何かの工夫をしなければならないことって少なくなったように思いませんか?
まず時間を短くする工夫なんて不要でしょう。お風呂は自動でお湯の温度や湯量を管理してくれるし、暑ければエアコンのスイッチ、寒ければヒータを使うまで。急にお腹が空いたと思えば、3分ほどでなんとかなりませんか。
昔のSF映画で描かれた未来生活と同じようなライフスタイルをしたければできる。それが私たちの生きている時間と空間といえるでしょう。出歩く必要すらないという世界が引きこもりの背景にあるのは間違いありません。
人間は不自由さを嫌う生き物です。不自由さを快適にしようというベクトルで発展してきた100年の文明は、周囲から不便を排除したのですが、以外と意識しない間に便利さにも鈍くなっているといえます。
便利も当たり前になってしまうと、感謝も喜びも驚きもありませんよね。火を付けるのにライターやマッチを使うのは当たり前であって、喜ぶことだとは誰も考えないでしょう。人間は持っているものにはすぐに慣れてしまう性質をしています。
だからこそ無くしたときに、必要だったとありがたさを知って愕然とします。当たり前だった生活が損なわれた時に、なくしたものの存在が大きなものとして迫ってきます。スマートフォンを紛失した途端、スマートフォンが大切だったことを直観して、青ざめてしまいます。
山には薬もあるが、知識と工夫が必要です。山には何もないようで、長期間の滞在を支えるだけの懐深さがあります。修行者たちが何年も山の中で修行できたのは山にそのような包容力があったからこそ。
しかし、ワンタッチでは何も手に入りません。サバイバルしようとしても、木の実一つ食べられないかも知れません。昼は暑さに打たれ、夜は露に冷やされるだけです。山は無知の人や工夫をしない人たちを排除します。
そのような環境に身を置くと携帯電話が使えない時間を実感するでしょう。スマートフォンが手元にあっても、電波を捉まえられず、電池が消耗されてしまいます。すぐに役立たずの荷物になります。充電するためのコンセントがなければ、カメラとして使うのにも気を遣うほかありません。
日頃コンピュータを使い慣れているなら、山の中にいるわずかな時間でも使わないと非日常になります。記憶し記録しておくノートのありがたさが身にしみます。工程表や宿の情報をネットドライブにおいたままにしていた失敗をしました。
当たり前ですが、休む場所を探さなければ、休むこともできないという感覚は日常的なものではないでしょう。腰掛けるだけでは休めないという実感は普段忘れています。さらに山で雨が降ったら湿度で神経を病みそうになりますが、これも普段意識しません。
お弁当を食べようとしたら箸を忘れたことに気づいたという経験があります。家にいれば箸を忘れるなんてありえないですが、一旦外に出ると、あるのです。そんなとき、ナイフで落ちている枝を削れるかどうかが問われます。
休む以外に回復の手段はないというのも、家や町中では感じない感覚です。食べることでごまかすことはできません。しかし、休むことに必要な荷物は多分バックパックには入れていないでしょう。
たかる虫にいらいらしても逃げ場なんてありません。どこにでも虫はいます。トイレはもちろん、木の陰に、そして足下や顔の周り。気がついたら蚊柱の中に立っていたなんてことも。当然の日常生活で便利という贅肉を身にまとってしまっていないか問われます。