【50代から始める登山】こだわり満載の登山で疲れ知らず

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必要は発明の母であるなら、必要がなければ発明は生まれないという結論になるでしょう。そんなことはないとも言えますが、私たちの日常生活を見回して、考えてみても何かの工夫をしなければならないことって少なくなったように思いませんか?

まず時間を短くする工夫なんて不要でしょう。お風呂は自動でお湯の温度や湯量を管理してくれるし、暑ければエアコンのスイッチ、寒ければヒータを使うまで。急にお腹が空いたと思えば、3分ほどでなんとかなりませんか。

昔のSF映画で描かれた未来生活と同じようなライフスタイルをしたければできる。それが私たちの生きている時間と空間といえるでしょう。出歩く必要すらないという世界が引きこもりの背景にあるのは間違いありません。

人間は不自由さを嫌う生き物です。不自由さを快適にしようというベクトルで発展してきた100年の文明は、周囲から不便を排除したのですが、以外と意識しない間に便利さにも鈍くなっているといえます。

便利も当たり前になってしまうと、感謝も喜びも驚きもありませんよね。火を付けるのにライターやマッチを使うのは当たり前であって、喜ぶことだとは誰も考えないでしょう。人間は持っているものにはすぐに慣れてしまう性質をしています。

だからこそ無くしたときに、必要だったとありがたさを知って愕然とします。当たり前だった生活が損なわれた時に、なくしたものの存在が大きなものとして迫ってきます。スマートフォンを紛失した途端、スマートフォンが大切だったことを直観して、青ざめてしまいます。

山には薬もあるが、知識と工夫が必要です。山には何もないようで、長期間の滞在を支えるだけの懐深さがあります。修行者たちが何年も山の中で修行できたのは山にそのような包容力があったからこそ。

しかし、ワンタッチでは何も手に入りません。サバイバルしようとしても、木の実一つ食べられないかも知れません。昼は暑さに打たれ、夜は露に冷やされるだけです。山は無知の人や工夫をしない人たちを排除します。

そのような環境に身を置くと携帯電話が使えない時間を実感するでしょう。スマートフォンが手元にあっても、電波を捉まえられず、電池が消耗されてしまいます。すぐに役立たずの荷物になります。充電するためのコンセントがなければ、カメラとして使うのにも気を遣うほかありません。

日頃コンピュータを使い慣れているなら、山の中にいるわずかな時間でも使わないと非日常になります。記憶し記録しておくノートのありがたさが身にしみます。工程表や宿の情報をネットドライブにおいたままにしていた失敗をしました。

当たり前ですが、休む場所を探さなければ、休むこともできないという感覚は日常的なものではないでしょう。腰掛けるだけでは休めないという実感は普段忘れています。さらに山で雨が降ったら湿度で神経を病みそうになりますが、これも普段意識しません。

お弁当を食べようとしたら箸を忘れたことに気づいたという経験があります。家にいれば箸を忘れるなんてありえないですが、一旦外に出ると、あるのです。そんなとき、ナイフで落ちている枝を削れるかどうかが問われます。

休む以外に回復の手段はないというのも、家や町中では感じない感覚です。食べることでごまかすことはできません。しかし、休むことに必要な荷物は多分バックパックには入れていないでしょう。

たかる虫にいらいらしても逃げ場なんてありません。どこにでも虫はいます。トイレはもちろん、木の陰に、そして足下や顔の周り。気がついたら蚊柱の中に立っていたなんてことも。当然の日常生活で便利という贅肉を身にまとってしまっていないか問われます。

朝早く出かけて、登山口から山頂までまっしぐら。頂上を確認した下山して家路につくだけという登山のイメージは貧困すぎます。小学校の遠足登山なら仕方ありませんが、大人の遠足なのですから、もう少し発想を柔軟にしたいですよね。

まずはなにをおいても縁起を確認するのが大切です。古くから有名な山には必ず縁起が伝えられているもの。縁起を知ることで、地元の歴史との関わりが明らかになってくることもあります。物語として純粋に楽しめる場合も少なくありません。

ただし伝説伝承を疑うなかれ、と強くお願いしたい。伝説が科学的でないと主張してもナンセンスです。科学は少なくとも明治時代以降の通念に過ぎません。伝承には人間の知恵が多く織り込まれているものです。それらを疑っても何も実らないでしょう。

例えば一説に拠れば、高尾山の開山は奈良時代の行基に由来するそうですが、行基がその時代高尾山に登ったというには根拠が弱いそうです。で、その由来を疑って何か得るものはあるでしょうか。何もありはしません。むしろそのくらい古くから伝えられてきたと考える点に大きな意味を見ることができます。

加持祈祷、交通安全が願掛けの中心テーマです。真言宗に所属している以上は加持祈祷であり、人々の心配事の中心に焦点を合わせるのが真言宗のあり方です。真言仏教を柱にして、さまざまな伝承が接ぎ木されているのが特徴でしょう。

それは「力石」・「天狗うちわ」などの縁起物に表れています。古来の信心を加持祈祷などにより、祈願しているそうです。大切なのはそれらの願いが多くの人によって共有されているという事実なのです。

精進料理でお腹を清めるというのも一つの趣向になります。場合によっては精進料理を楽しめるでしょう。精進料理は修行の一環ですので、食事を通じて修行に参加するという意味も持ちます。楽しんで修行になるなら素敵ですよね。

観光地化した周辺地域を見逃さないようにしたい。単に商業主義だと蔑む人もいますが、地元の人たちの活力を肌で感じて力を得る機会になるはずです。それに資本主義社会で商業主義を蔑むのは見当違いです。しっかりと観光地を味わいたいものです。

意外な博物館や美術館が見つかることもあります。都心を外れた場所柄、地価が安くなるためか、小さな博物館を発見することもあります。事前に確認して、時間が合うようであれば訪ねてみたいスポットになるでしょう。

武蔵御嶽山は崇神天皇の時代に遡ります。もはや史実なのかさえも判然とはしません。しかし、人々が御嶽山にお参りしはじめた頃には既に開発されていた状況なのでしょう。ここも歴史の流れを伝承の中に含み持っています。

盗難除け、魔除け、豊作などを祈願するようになっています。昔はキツネ落としなどがあったはずですが、なくなっているようです。時代によってなくなる場合もあるということでしょうか。

神楽などのイベントも企画されているので伝統芸能に触れるチャンスになります。ビジターセンターに立ち寄ってみると、その他のイベントや体験企画の案内もあるので、情報を仕入れておくとよいですね。

近くで立ち寄れる施設があるかもと期待するのが温泉です。温泉を探してみましょう。温泉に入りゆったりと過ごすとリフレッシュは一段階二段階とレベルアップするのではないでしょうか。そこに地酒をという諸氏もいらっしゃるでしょう。

登山に出かけて、そのまま帰ってしまうのはもったいないです。観光地化されている山であれば、その周辺にさまざまなアイデアと人とを引き寄せているはずです。それらもはた山の影響下という意味では山の一部です。さらには季節に応じた変化を楽しみたい。

山道を歩くとき、足下がおろそかになるのは危険ですが、日差しを避けながら歩いていると、木々の木漏れ陽がまぶしくて目を上げてしまう瞬間があります。そんなときには立ち止まって、遠慮せず周囲に注意を向けてみます。

そこにはきっと素敵なな声で呼び交う鳥たちがいるに違いありません。いろいろな雑音が溢れているでしょう。あるいは子供たちの嬌声があり、自動車のエンジン音が谷の向こう側から響いているかもです。それらの雑音から鳥の声だけに集中します。

環境音の一部として鳥の声を楽しむのが素敵だと思います。雑音を意識から排除していくと、鳥たちの羽ばたき音まで聞こえてくるようになります。心がしんとして耳が自然の中に馴染みます。

一定の時間録音して、帰宅後に楽しむのはいかがでしょう?最近は録音用のICレコーダも安く、小さくなり携帯に便利になりました。メモリカードを一枚増設して1時間くらい同じ場所で音を拾っているのはどんな感じでしょう。

本格的なバードウォッチングはかなりのハードワークです。視力が弱ってしまったのでさらに敷居が高く感じられます。分かりやすい鳥なら、見分けるのも可能ですが、似ていて見分けにくい鳥になるとまるっきりダメになってしまいました。

取り寄せならぬ鳥寄せというバードコールは職人芸です。取り寄せならネットで簡単ですが、バードコールは専用の道具を使ったり、道具を自作したりして、鳥の鳴き声の真似をして呼び寄せます。鳥の鳴き声に関する知識が必須です。

季節によっては渡り鳥も見つかるでしょう。季節に関する知識が欠かせません。渡り鳥がどこまで下りてきているかという情報を詳細に追跡しておきます。そして目撃情報などの共有が求められます。

麓と山中とに見られる鳥に種類の違いがあります。地方差だけではなく、高度差も鳥の住み分けに大きく関係していますので、バードウォッチングは複雑な知識が前提になっているのです。事典はあっても、見分けるのが難しい。

裸眼では難しいこともあり、双眼鏡が便利ですが、双眼鏡は倍率だけ良くても役に立たちません。安ければ何でもよいと思って、持って行ったけど、まったく焦点が合わず、ズームが何の役にも立ちませんでした。

高級な値段の根拠は焦点と歪み補正機能にあります。レンズの加工に技術と手間が必要であり、ここで価格の差が出てきます。それなら少しでも良いものをと言っている間に、双眼鏡は5万円を越えてくるかも知れませんよ。

単独行を前提にすると服装にも若干の問題を感じます。鳥に見つからない服装は、事故したときに面倒です。アースカラーという自然に馴染む色合いの服は滑落して動けなくなった場合、捜索から見つけにくいものになってしまいます。

結論を言えば、山歩きをしながらバードウォッチングは上級者向けです。カタログを眺めていると、装備も段々と贅沢になっていきます。そしていざ出かけようと鞄に詰めると、すごく重くなってしまって、玄関のドアの前にしゃがみ込んでしまいかねません。

日本野鳥の会のホームページを検索してみましょう。探鳥会や講習会に参加してみるのもひとつです。どうせバードウォッチングのようなおしゃれな趣味に手を出すのなら、しっかりとした基礎を身につけておけばお得な気もします。

趣味のステップとして次の段階にあるものとしてバードウォッチングを考えてみてはいかがでしょうか。将来、誰か山行きの連れができたときに話題を提供するのに一役買ってくれるのは間違いないでしょう。

いずれにせよ低山ハイキングに充分馴染んでから、手を出すのが大人の態度です。あれもこれもと同時に手を出す子供じみた真似は卒業しましょう。

山登りはアンチエイジングに適当なトレーニングといいながら、やっぱり山が好きな自分が見つかります。定期的に登っているといつしか山が好きになっているものです。こうなるとトレーニングはどうでもよくなって来たりしますね。

何故と問うとき哲学が始まるもので、ギリシア時代から哲学は何故という問いかけで始まるものと決まっていました。何故に正しく唯一の答えを導けない、すべての哲学的命題はナンセンスだと喝破したのはウィトゲンシュタインでした。

絶対的な正解はないのだから、そこに山があるからという古典は置いて、自分で思弁しようという趣向です。つまり自分で山について、何故と問い、自分であれこれ答えを考えるのです。

例えば山が美しいから。山の美しさに魅入られた人は数多くいますので、この答えはさし当たり正しく見えます。しかし、多くの人が賛同するのが答えの条件でしょうか。決して違うでしょう。わずかの人が同意できなくても、正しい答えはあり得ます。

坂道を登る辛さを乗り越えるのが登山だから。辛さを乗り越えると強さが実るという実利的な答えをする人もいますよね。入り口はそのようなものでよいでしょう。分かりやすいですし、利益が明確です。しかし、強さが不要なら、登る必要がありませんし、強さに魅力を見ているのであって、対象が登山になっていません。

さまざまな危険をコントロールする必要があり、それらを乗り越えるところにスリルがあって、山の魅力になっている。そうですね。そうも思えます。でも危険なことはできるだけ避けるべきですし、一般の低山ではコントロールが必要な危険はそれほど多くありません。

空気が美味いというという答えも良く返されます。気功でもするのでしょうか。本来の気功は非常に複雑で、習得するのに何年も必要です。そんな気功を登山の道行きでできません。恐らく、激しさと熱を帯びる呼吸のことを意味しているのでしょう。でも山の中にはアレルゲンになる物質が多く潜んでいます。

私を山に誘った友人がいましたが、山で食べるインスタント食品が美味しいからと彼女は言いました。とても簡単で直情的、しかも魅力的な答えに思えました。でも私はカレーが好きではなかったのです。個人的レベルでの正解もあるのですね。

成功体験を得て、家に帰るのは仕事と人生の成功に通じると考える人は登山を人生のシミュレーションにしているのでしょう。その要素を見いだすことは可能でしょう。こう感じられるなら良いでしょうね。

問題を解決する方法はたくさんあります。現地にあります。この原理を今まで難度も繰り返し経験してきました。むしろ解決できなくなる道を特定する方がずっと難しい。でも山は迷い道が多くて、正解が少ないとなれば、論理が逆転してしまいます。

「案ずるより産むが易し」は信じるに価する台詞?登山口から登山道を見上げて、頸が痛くなった時もそのように考えようとしましたが、ダメでした。山頂まで、早く帰りたいと言いながら登り続けたのを忘れられません。

昔の友人を思い出しながら、一歩を進める山歩きが素敵です。昔の思い出の中からとびっきりの奴を引っ張り出して、その情景をイメージして、思い出の友人と対話をする妄想が気持ちよく、時間の経過を忘れるほどです。

変わらず山はそこにあるが、今日の山は違うように感じます。そんな経験を生駒山の登山道、暗がり峠を歩いている時にしました。小学生の時から何度も越えている峠なのに、その日だけはいままでと違う感じを受けたのです。

哲学書を持参するのも味があります。私たちは足跡を残して山を下ります。そしてまた明日から足跡を残して老いの坂を登り続けるのです。

今回は山行きに伴うリスクを考えておきたいと思います。特に最近はシーズンを迎えると当たり前のように不幸なニュースが流れるのが気になります。知らなかったでは済まされない、アウトドアに潜む危険について最低限の知識は必要でしょう。

植物などは追いかけてくるようなことはありませんが、危険な植物もあります。気がついたら腕が真っ赤に腫れ上がって、痛くて曲げることもできなくなっていたとなると、もう二度と山になんか行きたくないと思ってしまいます。

だから長袖長ズボンが必須です。そしてヌルデ、ウルシ、ハゼノキなどの毒性のある植物については図鑑などで前もって確認しておきましょう。大切なのは近づかないようにすることで、これは相手が動物であれ、植物であれ共通した約束事です。

当たり前ですが、山中には多くの野生生物が生息しています。植物だけではなく、動物、昆虫などに加えて、野生化した生物などが含まれてきます。確認しておきたい事実はこれです。野生の中で人間が最も低能な存在だということです。

危険生物に関する知識を活用して危険回避しましょう。確かに人間の運動能力は動物の中で、最低ランクかも知れませんが、それでも他の動物よりも考える力は優れているはずです。それを活用するべきです。相手を知ることは力です。

野犬は群れて囲んで襲ってきます。最近でも飼い犬が野生化して郊外などにいます。山の中に生息するようになったのも少なくありません。そんな犬が一匹で襲ってくるなら棒きれ1本で追い払うこともできるかもしれません。

一旦追い払えたと思っても、野犬は必ず群れを作って再度襲ってきます。そのときは周囲を囲むように襲います。もはや棒きれ1本ではどうしようもないでしょう。のど元を棒で守るようにして構えて、逃げ道を見つけて、少しずつ後退するようにして逃げます。

そして最悪の相手である熊と出会ってしまったら、動いてはいけないのが鉄則です。視線を熊に定めて決して動いてはいけません。といいつつ、最近は熊の性質も違っているそうで襲ってくることもあるそうです。

そうなると絶体絶命です。ナイフなどの鋭利な武器を用意して相手の鼻先を目がけて戦うことになります。熊は一撃で殺そうとはしないそうで、怪我をしたとしても、一瞬に賭けることで命は助かるチャンスはあるそうです。

猪は猪突猛進しないので、木に登って逃れるのが一番です。ただし猪でも多少のジャンプ力はありますので、低い場所で安心してはいけません。できるだけ高いところに登りましょう。

ニホンザルは人間の眼に止まらないスピードで動ける動物です。体格が小さいと思っていると、大変な結果を招きます。彼らと戦って勝ち目はありません。空手の黒帯も無力です。蛇、まむし、ヤマカガシ、ハブなども侮れないスピードで動きます。

スズメバチの警戒音に注意するのは山中に限らず、町中でも同様です。スズメバチは巣に近づくとカチカチと警戒音を出しますので、巣から速やかに離れるようにしましょう。マダニ、ムカデなども同様の危険性があるので注意が必要です。

最近の注目株、外来危険生物、ワニ亀などのかみつき亀の類も警戒しておくのが賢明でしょう。水際でうっかり遭遇するのは危険きわまりないです。これらの生物からは慎重に距離を置くようにするのが肝要です。

自然現象ですが、雷鳴が聞こえた時点で、家屋への避難を考えましょう。自然は人間の力を超えた存在という考えを思い出す機会になれば、それだけで山行きには意味があります。山の中には薬もあれば毒もあって、それを決定するのは関わる人間自身です。結局は、一人一人の品性が問われているのかも知れませんね。

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